2014年11月30日日曜日

メディアとしての音楽と建築=Commedia

20世紀の建築はモラリティが強くて面白くない。しかし、その反動だろうか、最近の雑誌を飾る建築は意味不明で形がゆがみ、不安定で不快ですらある。
ギリシャ以来、建築は集団に属するもの、そこで優先されるのは、合理であって個人的な趣味や経験ではない。
合理は「すべての事柄は理論理性で説明できる」という集団的意志に支えられている。
現在の合理はプラグマティックで経済的、あるいは個人的ご都合主義、言い訳に過ぎないこともある。
建築形象は本来は誰にでも理解出来るカタチ、しかし、現実はジャゴーン、集団的理解にはほど遠いものとなってしまった。

古来より建築を生み出すものは人間の言葉。言葉は集団の中にあって、人間と人間、人間と世界との関係づくりに関わっている。現在の建築形象は場当たり的な個人(稟議・政治・経済)に関わる散文であり、集団的な詩文とはほど遠い。
建築が発する言葉は約束ごとを持ちレトリカル(説明が必要)、と同時に、誰にでも理解でき、美しく感じられるものであったはず。そして、そこには詩行としての方法があった。

現在のイタリアデザイン、スカルパやロッシの建築にはその伝統が残されている。
集団的な詩文詩行といっても、確かに今や容易に理解され、感心が持たれるものではない。
しかし、建築が建築のうえにある限り、オブセッションするカタチに関わる詩文詩行があるはずだ。

ソネットやカンツォネッタの詩行詩形はかっての音楽の形式、しかし、現在もなお生きている。
現代建築にはどんな形式があり、その形式はどのように変容しているのか。
我々はそこにどんな世界、どんな関係、どんな意味を読もうとしているのか。
odysseyは個人的な感情や嗜好を超え、モラリティに関わらない、たとえオブセッションだけであっても物語のある建築を探そうとする旅なのだ。

 

2014年11月10日月曜日

ルネサンス建築はモダンだった

建築とは意味の無いところに意味を生み出す装置を作り出すこと。 
装置が複雑になればなるほど、意味にたどり着くための扉の数も多くなる。
 ドーム=天空を象徴する架構、天空のミニチュア 
技術がなくても空間(意味)を作り出したいとなれば、見かけだけのフェイクと言える架構技術が必要となる。
技術は価値観を伴わない知識。 
技術は交換可能、意味がないからこそ技術は普遍的であり、人から人へと流通し、流通の過程で汎用性を獲得する。

 タイプとの関連で考えてみよう、
タイプは空間に意味を作り出すものであるから、架構技術には関わらない、フェイクでも良い。
 生み出された意味は汎用性も持ち普遍的ではあるが、一元的である必要はなく、読み取りが難しい、読み取りは自由。 

壁でも柱でもない構築的要素は何を意味するか、あるいは意味は無いのか。

ルチェライの壁の端部は理想都市を想像させるフェイクいやメッセージ。 
この建築はルネサンス、透視画法が意味する方法で世界を描いている。
この壁面が延々と続く都市、そのフィレンツェの持つ意味、その世界は何をメッセージしているか。
それはフェイクとして描かれているが、アルベルティの描く、あるべき都市の現実の姿なのだ。
村野建築の柱はフェイク、しかし、どれも意味深い。
=日生劇場、樹木苑、ルーテル教会等々。
彼のみメッセージはもはや、読み解く人が居ない。

 建築タイプの原型 、その意味する言葉は?
1-屋根 
2-壁 
3-柱 
4-エディキュラ 
5-アーチ、アーケード 
6-コリドール 
7-タワー 
 そして現在、建築は空間のシンフォニー。
音楽の方法は現代建築に何をもたらすか。

2014年11月3日月曜日

ピアノの時代


十八世紀は視覚革命の時代。タブローに描かれる世界は最早、中世の神の世界でもなければ、ルネサンスの人間中心主義を支えた透視画法でもない。
それはルドゥの建築に示される平行図像、気球から見たようなアイソメトリックな世界だ。

神の目に変わり、人間の目で世界を見ることが可能となった十五世紀以来、我々は透視画法を利用し、部分と全体を調和させた建築的世界を作ってきた。
しかし、十八世紀、建築家は人間中心の目を捨て、再び古代ギリシャの天使の目を希求している。
それは全てを等角投影、等距離におき、何処にも絶対的中心を置かない世界像。

ルドゥとモーツアルトは同時代人。
モーツアルトは人間の歌を楽器演奏の音楽へと導き、すべての世界をを楽音によって表現して行く。
ルドゥは人間の視線を解放し器械的記号化により世界を描いて行く。
十八世紀は「ピアノの時代」だ。
その初頭、フィレンツェで生まれたピアノはモーツアルト、ベートゥヴェンによって全く新しい音楽の世界を開いて行った。
ピアノの時代は、現代のコンピュータの時代に似ている。
アナログメディアをデジタル化していく現代のコンピューター技術者に似て、モーツアルトは開発時代のピアノ(コンピューター)を操り、あらゆる歌を軽快な機械音と同調させ、ウィーン中の居酒屋(ゲームセンター)を沸かせている。
彼はまさに現代社会におけるゲームやアニメづくりの天才と全く同じだ。

「ベートーヴェンの32曲のピアノソナタは新しいテクノロジーを貪欲に取り入れ、それと格闘してきた歴史でもある」と渡辺裕氏は書かれている。
ベートーヴェンの最新式ピアノとの格闘は、コンピューターを手にして、未だプリントメディアを超える新発想を見いだし得ていない、我々の姿に近いかもしれない。

ギリシャの時代は「天上の館」が建ち、「天体の音楽」が響いた時代。
巨大な楽器であつた宇宙、そこでは固有のメロディーが奏でられ、そのメロディーの中には世界を解きあかす法則が秘められていた。
芸術が、すなわち技術であった彼らの時代、宇宙はある種のスーパーコンピューター、数学的法則はそのためのソフトウェアーと言って良い。

しかし、十七世紀後半、ニュートンがプリンキピアによって、スーパーコンピュータとしての「宇宙=世界」を解体した。結果、天体は音楽を奏でる場ではなくなった。
十八世紀後半の「ピアノの時代」、建築家はルドゥは気球に乗り新しい理想世界を想像し、モーツアルトとベートゥヴェンは新しいピアノを駆使し、再び「天上の館、天体の音楽」を奏でようとしていた。
そして現在の我々はバームの中のスマホを駆使し、懸命に新しい世界を想像しようとしている。


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