2010年1月16日土曜日

アカデミア・オリンピカ



16世紀後半、北イタリアの小都市ヴィチェンツァにヨーロッパ最初の近代劇場、テアトロ・オリンピコが建設された。フィレンツェにオペラが誕生する14、5年前のこと。
ヴィチェンツァの劇場とフィレンツェのオペラ、ルネサンスの黄昏期に誕生した音楽と建築は、どちらも当時はやりのアカデミアが生みの親、今日はこのアカデミアについて触れてみたい。
アカデミアとは貴族を中心とした知識人の集まりです。15世紀の半ば、ナポリやフィレンツェの文化人(ヒューマニスト)たちが、ギリシャ・ローマ時代の詩の文体を模倣し研究することから始まったのがアカデミア。

新しい時代の担い手である自由都市市民は、中世キリスト教社会の聖職者に代わり、正しい人間の生き方を学び得る場を必要としていた。アカデミアはそんな必要を満たす教会や修道院に代わる大学のようなものであり、ポポロ・グラッツ(大市民)と呼ばれる有力市民たちの文化サークル。そして、16世紀後半にはアカデミアは学問の研究というより、様々な考え方を討論実践する場、文化活動運営の為の都市市民の集まりとなっていく。
つまり、そこは学ぶ場というより社会的貢献の場であった。豪華絢爛、趣味と娯楽の集大成、その後のヨーロッパ社会には欠くことのできないオペラと劇場だが、それを生み出すきっかけは「貴族の責務」としての音楽や建築、絵画や彫刻等、様々な作品を制作し上演しようとする文化活動、つまり、アカデミアの活動にあったと言える。
15世紀から16世紀のイタリア半島は中世キリスト教社会とは異なる新しい世界の創造に蠢いていた。文芸復興は単に、古代回帰だけを目指していたのではない。ポスト・キリスト教時代の新しい神、新しい生き方、新しい芸術を探していたと言える。その模索の中心となったのがアカデミアだ。
アカデミアの流行はこの時期のイタリアがいかに新しい世界の創造に躍起となっていたかの証でもあり、と同時に、アカデミアから生み出されるおびたたしい作品群、美術そして音楽や建築、当時の作品が持つ創意と工夫は、現代の作品に見られる趣味と娯楽とはほど遠いものといえるかもしれない。作品は個人に帰するものではなく、集団としての人間が如何に生きるべきかのメッセージとみなされていたからに他ならない。

アカデミアは神から離れた人間が人間として如何に生きるかを古代の詩編やドラマを通し模索していたと考えて良いのだが、その成果の一端がギリシャ悲劇やローマ時代のラテン喜劇の上演となって表れた。そして十六世紀後半、その上演の姿を変えたものがオペラや劇場を生み出して行く。つまり、フィレンツェそしてヴィチェンツァでのオペラと劇場はこうしたルネサンス以来の主知的な理論理性が生み出したもの。従ってオペラ誕生の契機となった「オルフェオの物語=エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果以上に、詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが重要であったと理解される。

アカデミア・オリンピカは、ゲーテの時代も、そして現在も健在。ヴィチェンツァを訪れたゲーテはこのアカデミアに招かれている。1500名もの人を集めてのその日の演題は「創意と模倣のいずれが美術のためにより多くの利益をもたらしたか」という議論であったとイタリア紀行には書かれている。(イタリア紀行・上p80)
1556年創設のこのアカデミアは1561年とその翌年、ヴィチェンツァの大会堂・パラッツォ・デッラ・ラジョーネの二階大ホールで、シエナの古典学者ピッコロミーニのラテン喜劇「変わらぬ愛」とヴィチェンツァの文人トリッシノの悲劇「ソフォニスバ」を上演した。(その情景はテアトロ・オリンピコの前室の欄間を飾るグリサイユに残されている。)
公演の舞台はパラッツォ・デッラ・ラジョーネ、後のロッジェ・ディ・バシリカ。この建築とテアトロ・オリンピコは、共に建築家パラーディオの設計、どちらの建築も依頼者のアカデミアと同様、現代も当時と同様活動している。

テアトロ・オリンピコ誕生の20年あまり前、パラッツォ・デッラ・ラジョーネでの公演の時、ラジョーネ自体もまだ改装中だった。
アカデミア・オリンピカは会場の建設と公演費の捻出で火の車であったようだ。しかし、幸い「変わらぬ愛」と「ソフォニスバ」の公演は大成功をおさめた。
多すぎた観客を一度には収容しきれず三度も上演が繰り返されたと「パッラーディオ」の著者、福田晴虔氏は書かれている。(パッラーディオ/p17)

ソフォニスバはカルタゴ将軍の娘。ドラマは政争の道具となり数奇な運命をたどるが、最後はローマ人の手を逃れようとして自殺するという悲しい話。
ヴィチェンツァの市民たちは「都市」と我が身をこの将軍の娘に置き換えていたに違いない。だからこその大ヒット。そして、この公演の成功が近代最初の常設劇場を作らせるきっかけとなったのです。

アカデミア・オリンピカは資金難のため何度か工事を中断し、ヴィチェンツァ市当局との交渉に明け暮れた。しかし、新しい時代を生きる為、自分自身の「都市」のイメージを必要とし、同時にそのような「都市」のイメージに合う建築を作り続けたパラーディオを愛したヴィチェンツァ市民たちは、すでに没していた彼の遺作を未完のまま放置するわけにはいかぬという強い意志で奮い立ち、ようやっと1585年3月8日、テアトロ・オリンピコは柿落としを迎えることとなったのです。



(via YouTube by Mitridate Mozart Harnoncourt)


アカデミアを構成するヴィチェンツァの貴族や文人たちの集まりは同時代のフェラーラやメディチの宮廷とはいささか異なる世界を模索していた。
ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコは古代ローマあるいはルネサンスの理想都市そのもの。それも仮設ではなく常設、広間や中庭ではなく、専用劇場を作った。彼らが求めていたものは16世紀のフェラーラやメディチの宮廷が必要とした祝宴の為の余興の場ではない。
ヴィチェンツァの劇場は演技や朗読の為であることには違いないが、むしろ劇場空間全体がイメージとして都市そのものとなることが求められていた考えられる。

「建築とは世界を模倣するもの」と言ったのはローマ時代の建築家ヴィトルヴィウス、このアカデミアの人たちにとって必要であったものは、自分たちの世界が古代都市ローマであることだった。
それも絵に描いた世界ではなく、実在感ある理想都市そのものであることが求められていた。
従って小都市とは言え実在のヴィチェンツァは、壮麗なパラッツオが軒をつらね、劇場の中の立体模型とはいえ、そこには実在感のある都市が作られる必要があったのです。
しかし、同時代のローマではすでにバロックが始まろうとする、まさに世紀末。この劇場を必要としたヴィチャンツァの人々には、ルネサンスを継続すべきどんな理由があったのだろうか。

ベリーチ山脈の山麓に位置し、交通の要衝でもあるヴィチェンツァは12世紀以来の自由都市。しかし、近隣都市のパドヴァやヴェローナとは絶えず衝突を繰り返していた。
15世紀に入り、ようやっと争いも減り安定もするが、それはヴィチェンツァ自身が本来持つ自治権を捨て、ヴェネツィア共和国の保護下に置かれたからに他ならない。
風光明媚なこの都市は、皮革や織物という手工芸よりも土地そのものによる農産に依存している。
土地持ちの有力者がこの都市の支配者であったが、彼らは絶えず近隣に侵される微力で不安定な少壮貴族に過ぎない。
少壮貴族たちはてんでんばらばら、外部の諸勢力と各々かってにつながりを持つことで貴族たちは個々の地位を守っている。
ヴィチェンツァは様々な外部勢力の手先となった貴族たちによって構成されていた都市に過ぎないと言えるようだ。
自治都市であればどこでも必要とする、市民同士の連帯や困難な時の対処のための一致団結は、この都市では思いもよらぬことだった。各々がバラバラに外部勢力と手を結び、ただただ共に住む都市人間として、都市空間を共有してきたヴィチェンツァ市民、ヴェネツィアの支配下に置かれてからの彼らには共通したテーマが浮上した。
それは彼らに連帯や一致団結は必要ないにしろ、利害抜きの社交あるいは交渉により「都市」を保持し続けようとする意志です。

都市が都会化し巨大な集落となった現代都市ではすでに見ることはないが、「都市」に生きると言う意志、そして「都市」にともに住むことの存在理由、あるいは「都市」を存続させる根拠、それは「都市」の持つ「社交の場」という目的のみを保持することに他ならない。
ヴィチャンツァは『都市」のみを存続させる必要があったのです、それ故、壮麗なパラッツォが連なり、もはや黄昏期だというのに、劇場の中にまでルネサンス期のオマージュとしての「理想都市」を作る必要があったと考えなければならない。

さらにまた、16世紀後半のイタリア半島は事実上はスペインの支配下、情勢は逼迫し、どの都市もその生き残りを掛け様々に画策する。その画策とは合従連衡、その為の政略結婚そして沢山の祝宴だったわけだが、ヴェネツィアの支配下にあり、海の貴族もまた沢山住まうヴィチェンツァは他の都市とは異なる。フィレンツェを始めとして半島の大半の都市が君主国家化したのに対し、ヴェネツィアは共和国として存続しつつづける。ヴェネツィアだけは一人の貴族、君主に牛耳られることなく、複数の貴族による共和制を維持してきた。

地中海、アドリア海を席巻し、海に生きた誇り高きヴェネツィア貴族の末裔達、16世紀、彼らは伝統的な外交術を駆使し、一君主や力ある大国のあるいは法王庁の権力にも屈することなく、この時代を生き抜いていた。
生き抜く為の一つ策は、海の貴族もまた陸にも基盤を持つ必要があった。その為にヴィチェンツァを支配下に置くことが彼らには不可欠であり、ここを農業経営の拠点と位置づけ、新しい生き方の基盤となる場所と見なしていた。
パラーディオの沢山のヴィッラはその結果でもあるのだが、もともとのヴィチェンツァの市民とヴェネツィアの市民を含めこの都市を共和国としての新しい生き方を模索する場として見なされていた。
従って、彼らは100年前のブルネレスキやアルベルティ同様、ルネサンスを継続し続けなければならなかったのだ。
テアトロ・オリンピコは結果として、現存する唯一のルネサンス劇場でもあるが、何よりも建築によって新しい生き方、あるいは自分自身が生きるべく世界の在り方を示そうとした「世界劇場」であったと理解しなければならない。


 



(via YouTube by Vicenza)