2013年6月28日金曜日

カーセンの「ホフマン物語」

演出がロバート・カーセンと言うことなので見逃せない、と思いつつギリギリ、最終日にようやっと間に合った。いつものメトではなく今日はパリ・バスティーユのライブヴューイング、映画館も東劇ではなく日比谷みゆき座。
演目はさすがパリでのオペラは、フランス人オッフェンバックの「ホフマン物語」。メト版は大のお気に入りだが、パリ版はさすがに華麗、そして目玉はなんと言ってもロバート・カーセン、4時間近い長丁場も演出家の魔術に翻弄されつづけた。
プロローグとエピソードに挟まれた3幕、一幕毎3人の女性、それはホフマンが愛する歌姫ステラの三つの分身の象徴。
19世紀ドイツの詩人ホフマンは悪魔のリンドルフに三つの恋を壊され絶望の谷に突き落とされる。
しかし、決してホフマンから離れることのないミューズの変身ニクラウスによって「人は愛によって大きくなり、涙によっていっそう成長する」と励まされ、光りの世界に導かれる。
このオペラでのボクのお気に入りはミューズのニクラウスだが、今日のカーセンの演出では主役は悪魔のリンドルフだ。
その思い付きはプロローグでステラが歌っている(はず)モーツァルトのドン・ジョヴァンニのドンナ・アンナにあるとカーセンはインタビューで答えている。

 モーツァルトのドン・ジョヴァンニはでは2人の女性(ドン・ジョヴァンニはすでに1003人の女性をモノにしているが)を手込めにしわがものにする、しかし、最後のツェルリーナでは庶民の力に翻弄され失敗に終わり、終幕で地獄に落ちる。
一方、ホフマンは3つの恋に失敗するが終幕(エピローグ)ではミューズに救われる。

どちらも「悪魔」がテーマだが、ドン・ジョヴァンニでは「悪魔」は内にあり、ホフマンでは外(リンドルフ)にあるとカーセンは想像しこのオペラを作っている。
さらに、オリンピアはツェルリーナ、アントニアはドンナ・アンナ、ジュリエッタはドン・エルヴィーラと見立て、可愛い操り人形のオリンピアと清純可憐なアントニア、男の魂を影として虜にする高級娼婦ジュリエッタは男が愛する女性の中の三つの部分の象徴というのが一般的解釈だが、カーセン曰わく、それは部分ではなく女性の持つ年代の違いだそうだ。
こんな見立てはドン・エルヴィーラ好みのボクには許せないが、モーツァルトだってびっくりだろう。

彼の演出上の想像はドラマの中身だけでは終わらない。その舞台構成にはもっと目を見張った。
3人の女性が三幕ともに持つ大きな扇は何を意味するのか。
さらにオリンピアとアントニアの幕では広場に立つ首の無いナイトの立像。
まぁ、幕ごとの様々のシーン、悉く登場するアトリビュートが気になってしょうがないのだが、驚かされるのは、舞台の上に舞台が登場することだ。

アントニアの幕では舞台上にオーケストラピットとプロセニアム(額縁)アーチ付き舞台が載る、ジュリエッタの幕では額縁舞台と桟敷席が舞台上に設えられている。
アントニアの幕はまだ判る、ピットでタクトを振るミラクル(実は悪魔のリンドルフ)の幻想操作に殺される舞台上の薄倖の若きソプラノ歌手。

そのシーンを観客席の我々はオーケストラピットの指揮者(トマーシュ・ネトピル)共々見せられるのだ。
映画を観るボクはその観客席を含めた世界を日比谷みゆき座の額縁の外から見ている。
まぁ、ややこしいが映画なんていつもそんなもの。
しかし、オペラ座の舞台上に載せられた観客席には大いに驚いた。

揺れるバルカロール(舟唄)に恍惚とする舞台上の観客は鏡に捕らえられた我が身自身の姿ではないか。
それもかっての新宿のキャバクラまがいのあられもない姿。
そう言えば、娼婦ジュリエッタが求めたもの、それは鏡の中に閉じこめられたホフマンの影だった。


映画が終わり、映像が消え、明るくなって気がついた。
カーセンやったな、あれはフランス革命期の建築家クロード・ニコラ・ルドゥの「ブザンソン劇場」ではないか。

ルドゥのスケッチは目の中の劇場、15世紀以来の視覚主義への警鐘、目の病、コスモロジー喪失の象徴だ。
そう言えばロバート・カーセン、タイトロールのステファノ・セッコを捕まえて「君は若い頃のピカソそっくりだ」なんてからかっていた。
ピカソだけではないが、20世紀のキュビズムや無調音楽はみな目の病からの脱出、プロセ二アムアーチを解体し、ルドゥに習い新しい秩序(美学)を造りだそうとする運動だ。

カーセンは21世紀になっても、未だ18世紀を乗り越えられない秩序の崩壊を、19世紀のホフマンに歌わせたに違いない。