2011年9月29日木曜日

古代ローマの劇場©


(二層の舞台を持つプリエネ劇場)

ギリシャ劇場の初期の形態を残し、そのまま現在まで保存されたのはエピダウロス劇場だけとなってしまった。紀元前二世紀を迎えると劇場は大きく変化する。

ソポクレスの悲劇が示すように劇場は祭礼の場というより、人間的ドラマの世界。劇場建築は本来の宗教的な意味合いから世俗的なものに変わりつつあった。演劇の内容も演技の場もオルケストラから遊離する傾向を持ち始め、劇の演じられる舞台が一段と高い場所に設えられることになる。

小アジアやエーゲ海の島々とギリシャ本土にはエピダウロス同様ヘレニズム時代に沢山の劇場が作られたが、それらの劇場にはやがて新しい要請に応じて手が加えられて行く。

まず、かってのスケーネは楽屋というより舞台背景(ローマ劇場でいうスカエナ)となり、演技の場はその前だけではなく、その二層にまで拡張される。そして上の舞台の背景もしっかりとしたスケーネが建てられた。そのような劇場の好例が現在のトルコに現存する。

小アジアのギリシャ植民地プリエネの劇場は新しい上部スケーネが、紀元前二百年頃木造から石造に造り変られたが、この劇場もエピダウロスと同じ、元来のギリシャ劇場の形態で作られていた。

演技の中心がオルケストラからその背後の高い舞台に移るにまかせ、多くの劇場は舞台回りが改築され、スケーネは著しく変化した。しかし、優れた音響を保ち、美しい自然環境に囲まれたギリシャ劇場本来が持つデザインはどこも損なわれていない。

半円を観客となる人々が、残りの半円を自然(神)が取り巻き、自然と人間が融合した建築空間。その空間は、劇の内容と劇場の持つ意味が日に日に世俗化の方向に向かうものではあっても、古代ギリシャの人々にとっては満天の空のもと、神々と合い和し、交遊する最も重要な場として位置付けられていたのだ。


(都市の中の劇場、オランジュ劇場)

ローマ時代を迎え、演劇はますます盛んになる。一つにはギリシャ劇が流行する以前からすでにイタリア半島では演劇の伝統があり、中世のコメディア・デルラルテに引き継がれる大衆娯楽は盛んであったからと考えられている。

植民地によっては剱闘士の闘技以上に人気の高かったギリシャ劇、その上演は宗教的意味合いからはますます離れ、世俗化して行く。ローマの人々がより身近な場所で、より身近な時に、観劇を楽しみたいと考えた結果であろう。

ローマ劇場は、ギリシャのような街はずれの山の中腹ではなく、多くの人々が生活する街の中に移動した。ローマ人は植民地とした都市の街なかには必ず円形の闘技場と劇場を作っている。闘技場と劇場、どちらの建築も辺境に生きる人々にとっては不可欠な娯楽の場であったからだ。

一方、ローマは屈指の技術大国でもあった。とくに土木・建設技術の発達は目覚ましく、劇場の建設という大工事においても、もはや自然地形を利用するという方法ではなく、平らな用地に石や煉瓦を用い、大きな観客席を建てることが可能となっていた。


 (fig74)

都市の広場の一角に作られたローマ劇場の遺構の一つがプロバンスのオランジュ劇場。オペラ・ノルマやアーイーダ等の公演で現代のオペラファンを熱狂させるこの野外劇場は、広場と背中合わせに一体化して作られた典型的なローマ劇場。

眺めの良い自然空間と一体化したギリシャ劇場は神殿や聖域の一部であり、その建築は宗教施設の一つとみなされるが、世俗の街なかに建つローマ劇場は祭式とは無縁の非宗教的建築。

しかし、その上演は相変わらず、宗教的な行事に合わされるばかりか、劇場を宗教から全く切り離して建設しようとは考えてはいなかった。ローマ劇場は聖地を離れた劇場ではあるが、ギリシャ時代に習って劇場は劇場自身によって、そこが聖地であり、祝祭の場であることを示そうとデザインされていたのだ。


(ヴィトルヴィウスの世界劇場)

古代劇場は劇場のデザインみずからが、その場所は聖地であり、世界の中心、宇宙の原点となる場所というメッセージを発している。紀元前一世紀のローマの建築家ヴィトルヴィウスは劇場建築の作り方について次のように述べている。

「劇場そのものの形は次のように造られるべきである。低面の周に予定されている大きさの円周線がコムパスを中心に置いて引かれ、その中に円の縁に触れる四つの等辺三角形が等間隔に描かれる。これによってはまた天空十二座の星学においても音楽から借りた諸星の関係が割り付けられる。」(ヴィトルヴィウス建築書:東海大学出版)

ヴィトルヴィウスの記述から、ローマ劇場は天体あるいは宇宙の構造がそのまま劇場の平面として構成されていることが解る。劇場はドラマによって世界を描き出す以前に、その全体の物理的配置によって世界を、あるいは宇宙の形を表現しているのだ。

宇宙あるいは天空と十二の星座についての説明はヴィトルヴィウスにとっては十書の建築書の中の一書の全てをあてて説明しなければならないほど重要な記述。何故なら自然万物の総体としての宇宙、星郡と星の軌道とで形成された天空の説明は自然そのものを形づくる神の御心を語ることでもあったからだ。

ヴィトルヴィウスの建築書はギリシャ劇場とローマ劇場の間の幾つかの違いに触れている。円形のオルケストラを低面とし、背後にスケーネ(背景)が建ち、その中間を舞台とする構成はギリシャもローマも同じ。ヴィトルヴィウスは八項目にわたってローマ劇場の作り方を記述した後で以下のように述べている。

「ギリシャ劇場ではすべてがこれと同じ手法でつくられるべきでない。というのは、まず底の円において、ラテン劇場で四つの正三角形の稜(十二の星座)が円周線に接しているように、ギリシャ劇場では三つの正方形の稜が円周線に接し、そしてその正方形の一辺はスカエナに最も近く、それが円弧を切り取り、その線上にプロースカエニウムの縁が指定されるからである」。(前掲ヴィトルヴィウスの建築書)

正円に内接する正方形によって描かれたギリシャ劇場に対し、正三角形によって生まれるローマ劇場、オルケストラの直径が小さくなったのが最大の特徴。さらにその三角形の一辺をスカエナの壁面に一致させることで、舞台部分の間口は広がり、奥行きが圧倒的に深くなった。

ローマ時代、かっての宗教色をおびた内容から世俗的なものに大きく変わった劇の上演では、儀式的であることよりドラマの進行が重要となり、観客の視線はオルケストラではなく舞台の上に集中することが要求される。やがて、演じられる場はオルケストラから遊離し、一段と高い場に移された。

舞台背景となるスカエナの壁面は観客席と同じ高さに作られ、その両端が観客席と接するようになると、劇場は一気に外部の世界とは遮断され閉鎖性をおびてくる。

さらに、ローマ劇場は観客を強い陽射から守るため、バラリウムというテント状の屋根にも覆われる。劇場建築はここに至り自然世界、神の世界とはまったく分離したドラマのための別世界としてつくられるようになった。つまり、古代ローマでは劇場も劇の内容もすでに現代に近いものとなっていたのだ。

白日の天空の下、大自然に囲まれていたギリシャ劇場とは異なり街なかに建つローマ劇場だが、後々の人はこの劇場を「世界劇場」と名付けている。ギリシャでは世界の中心、聖地の証であった劇場は、ローマでは劇場自身がそこは聖地であり、世界の中心であることを示さなければならなかった。

世界の中心をメッセージする劇場、ローマ劇場は世界のカタチを示す装置、世界模型としてデザインされている。その為にヴィトルヴィウスが拘ったのが前術の正円に内接する正方形ということだ。(実際のローマ劇場は四つの正三角形、それはオルケストラを小さくし舞台間口を拡げるためのヴィトルヴィウスの工夫でもある)。

劇場の平面形状は正円と正方形の組み合わせ。正円はマクロコスモス(世界・宇宙)、正方形はミクロコスモス(人間)と意味づけられる。ミクロコスモスである人間(正方形)はマクロコスモス(円)のもとで様々な所行、生き様、己れの生き方、役割を演じる。

それは人間が神あるいは自然と一体となって生きてきた時代の人間的世界そのものの姿。共に生きる人間の世界を実体化し、人間が人間として生きるに足る場を象徴した劇場空間。建築家は劇場をミクロ(人間)とマクロ(天体)、二つのコスモスが相重なり合った空間としてデザインすることで、その空間を世界の似姿、世界模型と意味づけてきた。


(リビアのサブラータ劇場)

現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータ劇場。紀元二百年頃の建築、この地つまりリビアというアフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられている。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打っている。壁面の両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。


 (fig75)

この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが出来、サブラータ劇場では複雑な劇の展開が十分に可能となった。

舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有しニッチ(壁龕)を作っている。このニッチに挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所。

このスカエナ・フロンスは何を意味するのだろうか。全体の印象は後のルネサンスの理想都市をイメージさせる。アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景は近代劇場の原型となったテアトロ・オリンピコにそのまま引き継がれている。

ヴィトルヴィウスの建築書には三つの背景画の説明はあるが、この三つの入口については何も触れていない。しかし、今に残るローマ劇場として有名なプロヴァンスのオランジュ劇場の スカナエ・フロンス もまた三つの扉。この劇場の中央の扉を現在「王の扉」と呼んでいる。中央と左右の扉の使い分けで登場人物のヒエラルキーを観客に伝えていたのだろうか。


(古代劇場の固定背景が意味するもの)

興味はむしろ、スカエナ・フロンスが何故、劇の内容以前に設置され、劇の進行に関わらず固定化されているかにある。舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇の上演とは異なり、この固定化されたサブラータ劇場のフロンス・スカエナはどんな意味を持っていたのか。

「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生:せりか書房)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマ時代からルネサンスまでの劇での登場人物は特定の人物を演じるのではなく寓意あるいは普遍的な「人間」、つまり神話や聖書の中の人物を演じる。そのようなドラマでの舞台背景はいつも固定的なものとなる。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場あるいは観念的な世界(コスモス、世界劇場あるいは理想郷)を示すもの、中世においては聖書に登場する天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものに他ならない。舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物。そしてドラマの場は普遍的・理念的世界。

劇場は二つのコスモス(人間と天体)が重なりあった象徴的空間。そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として意味づけられている。つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場、それが「世界劇場」を意味する所以でもあるのです。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピア。十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ同様コスモスの象徴性で満たされていたのに対し、シェークスピアの登場人物は生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。その理由は登場人物が抽象的な場ではなく、特定の場所に強く結びつけドラマ化されているからだ。

同時代の他の作家と異なりシェークスピアは主役たちに個性を持たせるためには、舞台背景は特定な場所(例えばヴェローナのジュリエットの家のバルコニー)をイメージさせる装置であることが不可欠だった。

シェークスピアの場所に対する感受性は、時代を先取りしている。やがて、西洋社会で自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピア的見方が多くの人々に共有され、舞台背景は場面ごとに変化しなければならなくなる。

このような舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行している。舞台がコスモス全体(世界劇場)であった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、万人ということさえあった。

しかし、自己は集団としての存在であることから徐々に個人的な存在としての意味を持ち始める十六世紀以降、劇中人物は強い個性を身につけ、舞台背景は普遍的な場ではなく、特定な場所を表現するものが求められるようになるのだ。この事は日本の能と歌舞伎の舞台背景の違いにも表れている。つまり、劇場は「祝祭」あるいは「世界劇場」であることより、「見る・見られる」関係を重視するニュートラルな場としてデザインされるようになるのだ。

シェークスピアは先取りしたのではなく、むしろ、時代の要請に応えていたと言って良い。このような観点からローマ劇場の典型であるサブラータ劇場の舞台はまだ特定の場所ではなく、世界劇場という普遍的理念の場。そこは神がつくる天国や地獄であり、人間の観念が生み出す理想都市であったといことに留意する必要がある。

テアトロ・オリンピコのデザイン・コンセプトはルネサンスの「都市の広場」であり、ローマ時代の「世界劇場」という二つの普遍的理念の場が「重ね合わされ」表現されていたのだ。しかし、シェークスピアと同時代の近代劇場の誕生としては何とも時代遅れのデザインであったと言っても良いのかもしれない。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上下に設えられた舞台のあらゆる場所を所狭と使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であるからこそ、背景は固定的なものでなければならなかったのだ。

ここで重要なことは、シェークスピアが先取りした、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあるということだ。

すでに見たようにテアトロ・オリンピコ、そして後に見るようにオペラ、二つは共にこの変局点に誕生している。オペラは古代と近代の「狭間」あるいはその「重ね合わせ」により誕生する。オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を「重ね合わせ」ているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言って良いのだ。


(教会は劇場)

ローマ文化を徹底的に埋葬してしまったキリスト教時代、この時代は祝祭の為の劇場は存在せず、必要とされてもいない。教会が祝祭空間であり、劇場そして音楽の空間だったからだ。カトリックと異なり十六世紀からのプロテスタント教会では音楽より聖書の中の言葉と説教が重視されるが、ここもまた、もとはと言えば歌と音楽の為の空間。

神への祈りとは、恋人への想いの表現に似て、なんらかのワクワク感を伴い吟じられるもの、そこでは日常的言語とは異なり感情が優先する。賛美歌は神に捧げる「愛の歌」と言って良い。教会のミサはもともと音楽と全く同質の体験なのだ。

宗教儀式はキリスト教文化圏だけでなく古代オリエント社会から日本まで、どこの文化圏でも音楽が中心だった。

劇場のない中世だが、教会での式典や野外での祝祭は中世の生活においても欠かすことの出来ない非日常的空間の現出装置となっていた。

中世劇には教会の典礼劇と地方回りの旅芸人によって演じられるローマ劇の二つがある。後者は教会からは迫害されてはいたが、イタリア半島ではローマ時代のテレンティウスのような喜劇を無言劇として、言葉のない身振りだけで演じることで人気を得ていた。

教会の中の宗教劇は九世紀にはすでに東方の教会(ビザンチン)で始まっている。それは信者の教化に役立つもの、西方教会(カトリック)でも十二世紀にはいると活発になる。一般的には日常の礼拝が劇へと発展し典礼劇として形を整えていく。

朝の単純な賛歌斉唱が神と英雄の物語へと発展し、復活祭の入祭唱へのトロープス(聖歌に新たに挿入される旋律または歌詞)が天使とマリアの交唱の形を取ることによって典礼劇がはじまった。

キリスト教会の中で演じられる劇と音楽の題材は聖書の中の物語、キリストの降誕と昇天、あるいは復活の話が中心となる。上演は教会の中の身廊と側廊を区切る柱間の一つ一つが、特定な場所を示した舞台とみなすことによって成り立っていた。教会では、演技の為の舞台は大道具によって作られる装置ではなく、人々の想像力によって生み出されるものだったのだ。

ギリシャ以来の象徴劇が基本となっている典礼劇では、当然のこと、舞台背景は逐次変化する必要はなく、もし特定の場を必要としても、そこはすでに神の国、物語を支える具体的な背景は教会全体が担っていた。

そして時には演じられていたものがそのままモチーフとなり、舞台を拡大し、大勢の参加が可能となる教会の前庭や戸外へと舞台を移して行くこともある。劇の主催者である教会は専用劇場を必要とすることなく、大小のドラマを教会の内外を使い分けることで巧みに挙行しつづけていた。


(都市は劇場)

中世は都市建設の時代。大聖堂のあるところ、どこも都市の広場が作られており、その広場は市民の為のもう一つの劇場となっていた。 都市の時代を迎えたヨーロッパ社会、祝祭をプロデュースしたのは教会だけではない。支配者となった君主や貴族たち、かれらはその権力と都市の維持や近隣都市との外交のため様々な祝祭を必要とした。

街路では外国からの賓客や花嫁を迎える行列、広場ではパリオ(競馬)や馬上槍試合。その祝祭の中で視覚的にも聴覚的にも、もっとも的確に異質な空間を生み出していたのはやはり音楽を伴った劇だった。

ここでの劇は教会と同じくキリストの物語。しかし君主の主催となれば、物語は世俗の見世物との組み合わせとなり複雑化する。当然、多少の舞台背景や仕掛けが必要となり、それらは全て、牧師と市民やクラフト・ギルド(同業者組合)の人々の共同作業となっている。

都市は全市民で劇の準備に取り掛かかる。彼らは20日からひと月、時には数ケ月もかけ準備をし、祝祭が始まると延々と数日間も続く野外劇を楽しんだ。

何処の祝祭も始まりはパレード。信徒団体や職人たちのギルド、商人たちの組合、その代表者たちは旗を掲げ、徒弟や見習いを引きつれて参加する。そして佳境は演劇。市民たちは建物の窓から身をのりだし、あるいは仮設の足場に鈴なりになり、なかには動きまわる演技者とともに走り回りながら見物した。

演技を正面だけから眺めるという形式はオペラ発展以降の事。仮設に作られた舞台や客席がまったく無かったわけではないが、大騒ぎの広場全体が舞台であり観客席。

中世劇の上演では役者と観客をはっきり分ける手だてはほとんどない。役者は演技が終われば即座に観客となる。あるいは隣の観客が突然、マリア様に変身し、演技が終わればまた観客に逆戻り。次の場面ではいままで演じていた役者が今度は見物するため、足場によじ登らなければならなかった。

中世社会、日常の都市空間では貧者と富者がいつでも隣り合って住まい、肩を寄せあって生活している。広場での劇の上演もこの姿に似て、役者と観客は未分化のまま。全員参加のディオニュソスの祭礼と同様、中世の祝祭空間もまた見る人見られ人に二分されることがない。従って、中世と言われる時代の五百年間、劇場建築は全く必要とされることはなかったのです。






2011年9月9日金曜日

シューベルトのミニョンの歌

シューベルトの歌曲への関心はゲーテの詩との関わりにある。 
特にウイルヘルム・マイスターの「ミニョンと竪琴弾き」の歌が大好きだ。
 シューベルトがゲーテの詩に初めて曲をつけたのは17歳(1814年)の時が最初、糸を紡ぐグレートヒェン/D118。 
モーツァルトとは40年の隔たりはあるが共に天才であることには変わらない。
ミニョンと竪琴弾きの歌を作曲するのは19歳。 
それから5年後の24歳・25歳であの素晴らしい一連の歌を完成させている。 (D726・727・478・479・480)。
 彼は晩年、思い出したように、ミニョンに関わって行く。 (彼の死は31歳1828年11月) それは、死の病を控えた29歳のとき。
 彼はヴィルヘルム・マイスターからもっとも有名な4曲、D877
1.ただ憧れを知る人だけが(D481)
2.私に話させないで(D726)
3.この装いでゆかせて下さい(D469,D727)
4.ただ憧れを知る人だけが)を完成させた。
 こんなことをネットで調べてみたのは、全く知らなかったD727を、今日youtubeで見つけ初めて聞いて驚いたからだ。 
ヴィルヘルム・マイスターの中のミニョンのイメージがそのまま、それも、ごくごく単純なメロディで描かれていたからだ。 
シューベルトの作曲家スタートは実質17歳、そして晩年を迎える29歳で再びミニョンに関わっていく。
ゲーテのミニョンを知る人は何となくなんとなく納得するのではないだろうか。
しかし、聞いてほしい、彼が最も幸せであったであろう25歳、1816年につくられたのがこのミニョンなのだ。
 http://youtu.be/6FhyDkwumA8 
Youtube映像の歌手はChrista Ludwig.

2011年9月3日土曜日

アルス・ノヴァと透視画法が開いた世界

 




ヨーロッパでは古代から合理主義への信頼が高い。それは「全ての事柄は理論理性で説明がつく」と硬く信じているからだ。ギリシャのイディアや中世の神に対する信頼は彼らの理性への信頼が生み出したもの。合理主義では現実的経験より、理性による思考が重視されている。逆に、現実的世界への信頼が高い場合はその思考は経験主義となる。「事柄の理解は全て経験の結果」という考え方であり、理性より経験が先行する我々東洋人は世界の有り様をこのように考えてきた。 

人間の五感は不完全なものであり、そこでの経験は信頼できるものではない、と考えるヨーロッパの人々にとって、現実世界はどこまでも不確かなもの。むしろその背後にこそ確かな世界があり、その世界だけが信頼するに足るもの。だからこそ芸術は模倣(ミメーシス)であり現実とはみなしていない。 つまり、合理主義とは現実にではなく、現実の背後に存在するものへの信頼が、ヨーロッパの人々が考える世界の有り様だったのだ。

このような観点から見れば、世界は「あるがまま」のモノではなく、このように見える「はず」のモノに他ならない。中世の教会の中の絵画や音楽には、この「はず」の世界が表現されている。中世絵画では現実世界をそのままリアルに描くのではなく、現実の背後の世界を理性的思考あるいは想像の結果として、観念的に描くことが必要だった。「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは透視画法。透視画法の発見は「人間の視野を哲学者の偏見からの解放」であったと書いたのはゲーザ・サモシ(時間と空間の誕生:青土社)。しかし、今やこの偏見の方が貴重かもしれない。何故なら、あるがままの世界を「あるがまま」見ようとしなかった古代そして中世という時代の音楽と建築、そこには我々が読み取れない、音楽・建築・絵画があったからだ。

十五世紀のブルネレスキの発明、アルベルティの理論化でルネサンスの画家たちを魅了した透視画法は世界を観念ではなく、実際に見ることが出来るモノとして描く方法を開いてきた。しかし、透視画法の発見以前に「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは 中世音楽における アルス・ノヴァ。 (アルスとは技法のことであり、ウーススが意味する習慣とは異なる)それは観念や理念先行であった世界を実在の道に導いた音楽運動でもある。アルス・ノヴァはキリスト教会がもつ原則や正当性という理論に従わざるを得なかった音楽を、新鮮な現実の世界の響きへと開いていった。

 十四世紀、アルスの開発により、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化していく。その先駆けは 1322年頃の音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)の登場にある。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと考えられる人。この理論書によって、音符の持つ時間の長さが多様化されたことが重要。多様化とは、本来は一対三という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、一対二という不完全分割をも認められるようにしたことにある。

今までは、教会が持つ正当性により三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。 教会の中では「三位一体」という理念から、許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァという運動により、論理的に許されることになる。二拍子系のリズムとは、人間のあるがままの歩行のリズムである。結果、音楽はやがて、現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていくことが可能となった。

 時代が代わり十五世紀になると、イタリアでは新しい価値観とキリストに変わる新しい神が求められた。そんな彼らが新たな「人間と世界、人間と人間」の関係の構築に役立てようと生み出したモノ、それがアルス・ノヴァと透視画法なのだ。二つは新しい生き方、新しい神に関わるためのメディアと言える。 そのメディアに期待された役割は神の啓示による中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、人間が眺める「あるがままの世界」に変容することにあった。

超越的な神が君臨する中世キリスト教社会とは異なる、現実的、快楽的、人間的社会を賛美する神を描くこと。 透視画法の役割は、神の介入無くしても存在しうる、秩序ある統一世界を生み出すことにあった。画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる。この一点を中心として描かれた世界には秩序ある統一が存在するとみなし、建築家や画家たちは、哲学者のイディアや神学者の神に関わらなくとも「生きるに足る確かな世界」を描けることを発見したのだ。 

ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチの描く世界は美しい絵画である以前にまず「あるがままという理念」として見なければならない。 ルネサンスの人々を魅了した透視画法は神に変わる秩序を人間によって生み出し得ることを可能とした。その世界は神のいる世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。そしてルネサンス以降「音楽と建築」は「神話」や「聖書」に変わる「風景の世界」に関わることで、新たなデザインの道を開いていく。