2010年5月1日土曜日

花の聖母大聖堂のブルネレスキとデュファイ

 
 
(建築家ブルネレスキ)
フィレンツェは紀元前一世紀、カエサルによって建設された古代ローマの植民都市です。
その位置はローマと北イタリアさらに西のガリア(フランス)を結ぶ交通の要衝となっている。
ローマの滅亡により一度は荒廃したこの都市も、十二世紀になると、新興商人階級の台頭により繁栄がはじまる。
アルテと呼ばれる商工業の同業組合による都市経営がその発展の基盤であり、君主や僭主に頼ることなく、市民みずからがこの都市を確立し、自由都市として発展させた。
十三世紀にはフィレンツェから、毛織物、絹織物業による生産品がヨーロッパ全土に輸出される。
さらにこの都市の銀行家たち、先行していたロンバルデイアやユダヤの商人を上回る活躍により、フィレンツェの経済は大きな繁栄に包まれた。
ルネサンスは、この歴史と繁栄が基盤。都市を反映させた自分自身が、神や君主に頼ることのなく、あらゆるものに対する創造精神によって生み出す新しい世界。その世界の創造が大きな文化活動となって花開いていく。

花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)はフィレンツェのほぼ中央に位置し、都市の象徴であると同時に、焦点となっている。
赤茶瓦が一面に敷きつめられた町並みに一際高く、花のごとく咲きほこるこの大聖堂のクーポラ(円蓋屋根)。その威容はローマのパンテオンを凌駕し、文字通り花のルネサンス都市のシンボルと言える。
花の聖母大聖堂は1296年に建設が開始された。
大聖堂はその後の都市の発展に併せ、徐々に工事が進められ、十五世紀のはじめ、いよいよ大クーポラの建設に取りかかることになった。
古代ローマを凌駕しようという巨大屋根の建設はフィレンツェの威信、十三世紀以来の自由都市市民の全ての期待が懸けられていて、失敗を許されない大工事。その為、工事をまかなう大聖堂造営局と工事の取りまとめを担う、羊毛組合の役員たちは不安と周到な建設の協議に明け暮れる日々を重ねていた。

十六世紀半ば、ジョルジョ・ヴァザーリは「ルネサンス彫刻家建築家列伝」の中で、この大クーポラを完成させたフィリッポ・ブルネレスキの章の冒頭、次のように書いている。
「生来の容姿風貌は貧弱でも、偉大さに溢れた精神と、並はずれた気迫を持つが故に、ほとんど不可能と思えるような困難なことがらであっても、いったん着手したからには、見る人を驚嘆させるように完成せねば生涯安んじえないような人々が少なからず存在する」。
1418年、公証人の息子、金銀細工師のブルネレスキに、大聖堂造営局は大クーポラの建設を任せ、フィレンツェの全ての期待と威信を賭けることになった。
列伝は続く。
「彼はジョットに劣らず容姿は貧弱であったが、その天賦の才は抜きん出ており、彼こそすでに幾百年ものあいだ正道をはずれていた建築に、新しい形を与えるために天から遣わされたされた人物であったといえるだろう。建築において当時の人々は、様式を欠き、誤った方法と貧相な構成、異様きわまる着想、優美さからほど遠い外観、劣悪な装飾からな建物を建てては、多くの財を無益に浪費していた。」

たびたびローマを訪れ、パンテオンを研究したブルネレスキは、直径40mに及ぶ大屋根には足場を掛けることなく、二重構造を持つリブ付きの八枚の尖塔状パネルを掛け渡すことを提案している。

この方法は古代ローマのパンテオンに学んだもの。
40mを掛け渡しても決して崩れることのない強度を持った屋根と天井、その各々を一枚の板で構成することはとても重さが耐えきれず不可能なこと。そこには厚みを確保し重さを減らす為のアイディアが必要、ブルネレスキは屋根と天井の間にリブを入れた二重構造のパネルを組み合わせることを提案した。
何度かの模型制作で、不安に明け暮れる羊毛組合や造営局を説得し、ようやっと着工の許しを得たブルネレスキだが、もう一つの難題が待ち受けていた。ブルネレスキは新しいアイディアに理解を示さず、旧来の方法のみを主張する、旧態化した工匠たち。彼は毎日、工事を進める親方たちとのやりとりに明け暮れざるを得なかった。
ブルネレスキの大クーポラでの戦いは、袈構の仕掛けの考案以上に旧来の親方たちが持つ中世的職人気質とその習慣にあったと言えるようだ。親方たちの軋轢から何度か工事を中断しなければならない日々もあったと記録されている。しかし、1436年8月、大クーポラの着工からちょうど20年、ブルネレスキは最頂部ランタン(頂塔)の設置のみを残し、ついにその偉業を達成した。

パンテオンを凌駕する大クーポラの完成は新時代の幕開けそのもの。ブルネレスキは赤煉瓦屋根に覆われた中世都市フィレンツェの上に大輪の花を咲かせることによって、誰疑うこともない都市と時代のシンボルを完成させた。
この大輪の開花は技術上の成功ばかりでなく、前代までの建築との決別の宣言、新しい建築の時代の到来を示すものであったといえる。何故なら、この時から、建築はもはや一過性的な職人的技術ではなく、一貫性を持った建築理論であることが重要視されるようになったからだ。
建築デザインとは、様々な工夫や概念を統御することであり、旧来の経験の寄せ集め、という生産技術に支配される職人仕事ではない、ということをブルネレスキは身を持って示したからにほかならない。
このことは職人とは異なる一人の「建築家」の誕生を意味する。
ヴァザーリーの列伝に名を連ねるまでもなく、彼は個人の持つ叡知によって偉業を成し遂げた最初の建築家。ブルネレスキは技術とデザインのみならず、建築そのものを変格した人でもあったのだ。そして新しい建築の時代はこの日、この「建築家」を起点として新たな道を歩み始めまることになった。

(ギョーム・デュファイの音楽)
大クーポラの完成の五カ月も前、待ち切れぬフィレンツェ市民は1436年3月25日に花の聖母大聖堂の献堂式(落成式)を行う。その式典の執行は教皇エウゲニウス四世。反教皇的勢力との確執によってローマを離れていた教皇は、丁度この時、フィレンツェを訪れていた。
エウゲニウス四世の遠征には当然、教皇庁聖歌隊も従っている。
フランドルの音楽家ギョーム・デュファイはその時の筆頭歌手。後に、ルネサンス最大の音楽家といわれるデュファイだが、まだ30代半ばの彼はこの献堂式のために、祝典モテトゥス「新たに薔薇の花は=Nuperーrosarumーflores」を作曲した。
式典に参列した人文学者マネッティは、鮮やかな衣服をまとったトランペット、ヴィオールなどの楽器の奏者や聖歌隊のことをつぎのように書き残している。
「彼らの音楽が聴衆の心を打ち畏怖の念で満たしたので、音楽の響きと香の匂いと美しい装飾とで並みいるすべての人々は高揚し始めた・・・聖堂全体が調和の有る合唱と楽器の合奏で一杯に谺したので、天使たちや神聖な天国の合奏や歌が、天から送られてきたかのように思われた。」(西洋音楽史/上・音楽之友社)

ブルネレスキも聴いたであろうこの音楽は、その音楽的構成に大変興味深い仕掛けを持っていた。
その仕掛けとは、祝典モテトウス「新たに薔薇の花」は、完成しつつある大聖堂と「数あわせ」がなされていた。
どこの聖堂もそうだが、大聖堂の身廊の長さ、交差部の幅や円蓋の高さという建築の各部分は正確な比例関係を持っている。一方、音楽もまた数学的配列で構成されていることは良く知られている。
四声曲イソリズム技法(一定の決まったリズムが反復されるリズム法)で作曲されたこの曲は、上の二声部は聖母マリアに捧げられたこの大聖堂について歌い、下の二声部は献堂式の為のミサ曲、そこではグレゴリア聖歌の旋律が演奏される。
ここからが数合わせの方法、下の二声は同じ旋律が4回繰り返され、その4回は回ごとに長さが異なり、その長さの正数比は大聖堂の比例関係に適合している。その正数比は6対4対2対3、その比率はそのまま身廊の長さ、交差部の幅、後陣の長さと大天井の高さの比を現しているのだ。
つまりデュファイは、大聖堂という建築と、その為の音楽を比例関係で調和させることで、文字どおりマネッティ−のいう、天上の世界を音楽と建築を一体化させることで、現出させようとしていたのです。

音楽とその音楽に讃えられた建築との数による照応は、一種の数遊びに違いない。しかし、このような発想は当時の音楽と建築にはよくあることだった。もともと音楽と建築は数の世界、数学の世界に生まれた兄弟のようなもの。ギリシャ以来、音楽と建築にとって、もっとも重視されていたのはハーモニー。建築の美しさの現実は、各々の部材が持つ形や材料が示す味わいに多分に左右されるが、根本的には構成要素の各部分部分と全体との比例関係によって規定される。つまり、建築は一種の抽象的な均衡に基づくものと考えられていた。
柱と柱の間隔や柱の高さ、それらは全て柱の太さに関わる数量的調和によって決定され、建築は冷徹で明晰な数に支配された完結した秩序をもった高貴な存在であった。そして、建築は古来から、調和を生み出す数比によって構成された音楽のようなものと考えられていた。

ヨーロッパでは、音楽は単なる感覚的な楽しみ、と考えられたことは一度もない。音楽は鳴り響く世界、そこは耳で聞く音の世界である以上に、知的営為の対象であったのだ。そして、宇宙や世界の構造を解きあかす物理学同様の一つの学問と見なされていた。つまり音楽は数学のようなもの。
それ故に、ギリシャ時代だけでなく中世の大学においてさえ、音楽は自由七科の中の必修科目(クオドリビウム)であったのです。音楽は算術、幾何学、天文学と並ぶ必修四科の一つ、それが、古代そして中世の考え方。

数と音の関係は協和音程に関わる事柄。従ってすべての音が、数学的関係によって表されるということは容易に理解できる。しかし、現代の我々にとって、数にこだわる作曲が音楽の創作上の必然であったとはなかなか理解出来ることではない。
現在の音楽の価値に直接関わる問題ではないと考えるが、作曲上の構成において、数学的関係にこだわり、一種の「数あわせ」を採用していたことは大変興味深い事柄だ。事実、「数あわせ」の音楽は十七世紀のバロック時代まで、しばしば見られた方法だった。「数あわせ」の音楽はバッハも作曲しているのだ。
人間の持つ細かい感情を歌い始めたモーツァルト以降、そのような音楽は消えて行ってしまったが、バッハそしてモーツアルトの時代の音楽、そこには音として耳に聴こえる音楽とは異なる、もっと大きな音楽の問題、音楽の意味と役割、そして、その変容の問題があったと理解すべきだ。つまり、音楽家の時代と言われる近代を理解するもっとも重要な課題、それは学問であり知的営為でもあった音楽が、耳で聞く感覚的な楽しみとしての音楽に変容する時代、集団の為の音楽が個人の為の音楽に変わりつつある時代でもあったからです。



(Dufay : Missa l'homme armé from lelutindecouves on yoitube)
http://www.youtube.com/watch?v=2DBtiTVaJZ0